弘前大学医学部2年 高橋健介
病棟にて
「私、もうすぐ死ぬの」シンガポールで歌手として働いていたというタンペー(23歳)は力無い声でつぶやいた。僕は何もいうことが出来なかった。彼女がこんなに暗い顔をしているのは初めて見た。
3日前、僕が病棟にやってきたとき、彼女は笑顔で迎えてくれた。手をつないで一緒に踊りを踊ったりした。とても陽気な娘だった。言葉は通じなかったが、何となく僕のことを気に入ってくれたみたいだ。
彼女は僕に写真を見せてくれたことがある。彼女が歌手として働いていた時代の写真の中には、美しく、健康そのものの彼女がいた。今日彼女はご飯を食べていない。時折見られる、痰の絡まった咳がとても苦しそうだ。やつれた頬に手を当てると、とても熱かった。手を握ってあげると笑顔を浮かべ、安心したように眠り始めた。
"I want to die. Please tell doctor to kill me."(もう死にたいんだ。医者に言って殺してくれ)そう言って泣き叫んでいる男性がいた。皮膚がぼろぼろとはがれ落ち、そのかゆさに耐えないらしい。かきむしった皮膚には血がにじんでいた。何度も何度も同じことを叫んで暴れようとする。"No. You can spend a good time of your last life in this hospice…"(あなたはここで幸せな最期を過ごせる)そう言ってなだめながらも、僕は自分自身の言葉に絶望を感じていた。この人が本当に全てを理解するまでは、幸せな時は訪れないだろう。健康な僕がどんな慰めの言葉を捧げても、それはきれい事に過ぎない。
首に出来た肉腫がのどに達し、食道に穴があいてしまっている男性がいた。唾を飲み込む度に苦しそうな顔をする。飲んだ飲み物は半分以上その穴から漏れだし、シーツをどろどろに濡らす。看護婦さんが薬で消毒を始めると、気が狂ったかのように、白目をむきだし苦しそうな叫び声を病棟に響きわたらせた。医者がいないため、モルヒネなどの強力な鎮痛剤は使えない。僕に出来たのは、ただしっかりと腕を押さえることだけだった。
向かい側のベットには、やせ こけて骨と皮だけになっている患者さんがいた。手首も足首も握るだけでおれてしまいそうなほど細かった。足の平だけがむくんで異様に大きい。あばら骨が胸の皮膚に張り付いて、一本一本数えることが出来る。話しかけても殆ど反応しない。人の肉体と言うより、骨そのものを見ているような気がした。ハアハアとか細く小刻みな息づかい。この患者さんは翌日の朝冷たくなっていた。
ここのエイズホスピスでは、ほぼ毎日、確実に死が訪れる。一日平均3人、多いときでは10人近い患者さんが冥土へ旅立っていく。個人のベットはカーテンさえもなくただ雑然と並べられているだけだから、患者は毎日のように目の前で死を目撃することになる。次に死ぬのは自分ではないだろうかという不安と戦い、否が応でも死と対面しなければならない環境がそこにはあった。
訪問の経緯
マレー半島とタイを巡る旅行の最後、8月20日から25日までの6日間、僕はエイズホスピスがあることで有名なロッブリーのWat Phra Baht Nam Phu(ワット・パバナプ)というお寺を訪ねた。
僕がこのエイズホスピスのことを知ったのは、筑波大学熱帯医療研究会で活動している本庄太朗さんの訪問体験談を聞いたのが最初だった。その後も学生間のメーリングリスト(E-mailでやりとりする情報共有の場)で多くの学生が訪問していることを知り、是非とも行ってみたいものだと思うようになった。多少観光気分も入っていたかもしれない。
訪問の数ヶ月前にお寺のホームページにあった連絡先にメールを送ってボランティアの意志を伝えたのだが、何の返事もないまま旅行の出発日が来てしまい、本当に受け入れてくれるのだろうかと不安だった。
バンコクに着いたときに電話をかけてみるが、電話に出たお寺の事務局の女の人は全く英語が話せない。盲目的に英語の� �界的勢力を信じて疑わなかった僕にとってはかなりショックで、タイ語の基本会話集を片手に10分ほど何とか粘ってみるが、全く要領を得ず、一方的に電話を切られてしまう。結局、親切そうなツーリストインフォメーションの人に通訳をお願いし、何とか連絡をつける。先方からは寺までの行き方を示したロッブリーの地図をFAXで送ってきてくれた。
寺までの道のり
ロッブリーはもともと遺跡と、そこに住む猿で有名な街である。駅をおりると目の前に遺跡群が立ち並び、道ばたには猿がいかめしい顔をして座っていた。
おみやげ満載のバックパックを背負ってロッブリーの駅に降り立ち、英語の通じないタクシーのおっちゃんに身振り手振りで説明してやっと分かってもらう。
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